帰宅難民になったあの日あの時。私の2011.3.11の追憶Part1

「うちの会社ってこういう時の判断遅いよね。」あの日私は文京区の会社にいた。土曜日だった。外を見渡すと早くも午後3時ごろから徒歩で帰宅する覚悟を決めた人たちが歩道で列を成し、いそいそと動めいていた。帰宅難民になったあの日あの時。私の2011.3.11の追憶。



3.11その日その時

「うちの会社ってこういう時の判断遅いよね。」

早くも帰路についている他社の人達をながめながら同僚がつぶやいた。

交通網が既に全滅したニュースを前にしても我社は社員に対して何の指示もでていなかったのだ。

かと言って社屋に宿泊できる様な設備がある訳でもない。

それどころか、ビルの古さだ。一応自前の物件なのだが築40年物で4階から上は分譲済みマンション。その為こちらの都合だけで耐震改修などできるはずもなく普段から亀裂をあちこちで目にする地震にはあまり自信がない建物なのだ。

「こういう時は会社から離れないでください」との訓戒は建物の耐震性が十分にある時の話だ。

とうとう定時退社時刻の17:30になっても何の指示もでなかった。

女子社員たちはいそいそと徒歩で帰る決意のもと社屋を出ていった。

「明るいうちに帰してやれっつーの。」

またしても同僚が悪態をつく。

「結局、危機管理体制が全く無い会社の典型例だよな。これって。」

流石に私も同僚に共感する以外の感情は沸かなかった。

「食料でも確保しておくか」近くのコンビニに行った。

私の考えも既に大甘である事を思い知らされた。

おにぎりはおろかカップめん、サンドイッチ、菓子パンどころか腹にそこそこたまりそうなお菓子にいたるまで商品棚はカラだった。

この光景を見て私の中の危機モードが2段階ぐらい一機に跳ね上がった。

ちょっとこれどうするか本気で考えないかんな。

社に戻ってみると、お偉い人たちがクルマで帰る段取りを進めていた。クルマで来ている同じ方角の社員に俺を載せてさあ帰ろうとやっているのだ。

「女子社員帰る前にそれ、やってやれよ。」内心思った。

20:00ごろにはクルマで帰る組に選抜された連中も大渋滞の中に消えて行き、残されたのは徒歩で帰るのが不可能な遠方通勤者でクルマにもありつけなかった連中ばかりとなった。

後で知った話だが結局一番地獄を見たのはクルマ組だったらしい。その大渋滞はすさまじく結局家に着いたのは翌朝もいいところだったらしい。

21:00ごろになっても未だに仕事している連中を見ている内に何か恐ろしいものを感じ始めた。

(もしかしてこいつら思考停止状態になってないか。)

社に泊まる覚悟を決めたにしても寝床をどうしようとか食料調達はとかそう言った行動を微塵も見せないからだ。

(この調子で付き合ってたらまさかの翌日も普通に勤務させられそうだな)

我が社の定休日は火曜と水曜なのだ。つまり通常なら翌日の日曜は普通に出勤日なのである。

私は翌日を代休にする宣言をして社屋を出た。帰宅できる目途はなかったが彼らのバカ真面目さに付き合わされるのだけは避けたかった。とても社でザコ寝した翌日も普通に勤務する精神状態ではない。

とりあえず20分程歩いて上野の街に出た。上野は宿泊施設も多いし交通面でも最寄りのターミナル駅だからだ。

まあ予想はできたが宿泊施設は全て満杯だし上野駅も人だかりがあるだけだった。

しかし東京でも有数の繁華街に入る街、上野だ。こんな折でも営業している飲食店は山ほどあった。

私は特に苦もなく店にはいる事が出来た。

22:00になってようやく夕食に有り付けた。夕食というか、飲み屋さんなので「飲んだ」というほうが飲食内容としてはより正しい。

23:30こんな折に飲み屋で飲んでる俺も大概思考停止で連中の事を言ってられんかな等と思いつつも、とりあえず腹を満たし酒で心落ち着かせる事だけはできたことに満足して店を出た。

JR上野駅はシャッターが下ろされていた。

「締め出しやがった。駅ってこういう時、居場所として解放してくれないものだったか」

最悪駅で泊まろうと思っていたのでその光景はショックだった。

締め出された人達はどこへ行ったのだろう、妙に人が少ない。

「やっぱりおとなしく会社に居た方が良かったかな。」

急に心が薄ら寒くなり一人で街に飛び出した事を後悔し始めた。

道路は右も左も身動きできないクルマで埋め尽くされ狂気の大河と化している。

とりあえずPDAで状況を確認する事にした。i-modeはダメでも一般インターネット回線を使うPDAは通信可能だったのだ。

”大江戸線は全線運転再開済み”  なるビッグニュースが舞っていた。

これなら新宿までは行けるな。これで小田急か京王が動けば実家に帰れるかもしれない。

小田急を調べると何とこちらも ”まもなく運転再開見込み” ではないか。

千葉の自宅に帰る手段は全く立たなかったが川崎市の生田の実家に帰る手段がここに整ったのだ。

しかし運転再開したと言っても大江戸線のダイヤは乱れに乱れていた。

「湯島天満宮」で新宿方面行きを待つ私にあてつけるかの如き反対方面行きの電車ばかりが5本ぐらい連続で来た。小一時間は待った末に乗ってからも新宿につくのに小一時間かかる混乱ぶりだった。

26:00新宿駅。のちに渋谷駅が人で大変な事になったのがニュースになったが、この時間帯の新宿駅は落ち着いていた。

小田急新宿駅西口の改札の前まで来た時この日一番感動した光景が広がっていた。

何と小田急線のたのもしい事に、特別震災専用ダイヤをすみやかに編制していて3本先まで発車時刻をきちんと電光掲示板に表示していたのだ。

次発   26:20 各駅停車 相模大野行き

次次発  26:40 各駅停車 相模大野行き

次次次発 27:00 各駅停車 相模大野行き

この時に感じた安ど感はちょっと言い表せない。「小田急線ありがとう。小田急線ありがとう。」何度も心の中で叫んだ。

それにしてもこの日が土曜日だった事は不幸中の幸いであろう。これが人の数がダンチの平日だったとしたらどれほどの混乱があったのか想像もしたくない。

3.16の感動

3.12はようやく自宅の千葉方面の電車が運転再開し始めたのを確認して自宅に帰るだけの日になった。

ただ築40年ものの古い木造家屋の実家が無事だったのを確認できたのは収穫だった。

翌3.13(月)に出社すると支店長が社員全員を集め家族や家の無事を確認した。

3.16(木)住宅メーカーらしい指示が飛んできた。

被害の大きい東関東方面のお客様リストを配るから全員でお客様及び販売商品である家の安否確認の電話をせよ。

私にもお客様20件ぐらいのリストが配分された。

「当日の社員への対応の酷さの割にはこういうアピールはしっかり考えるよな。」と内心皮肉めいた事を思いつつ電話をかけていった。

幸いにも私が電話をしたお客様の家はエコキュートの転倒も起きておらず家族も家もご無事な方ばかりだったが、何組めかのお客様のところで私は言葉を失った。

「わたくし●●ハウスのとものと申します。〇〇様、この度ご家族はご無事でございましたか」

「ああ(笑)、おかげさまで」

「それは良かったです。お住まいのほうは何か被害はございましたか」

そうマニュアル通りに聞いた私に返ってきた返事それは

「ああ、ごめんね。あれから家には帰れていないんだ。だから見れていないんだよ。僕自衛官だからずっと緊急出動しててね。ごめんね。」

そういって逆に謝られてしまったのだ。この会社の配布したリストにはお客様の職業は載っていなかった。

私は会社が〇〇してくれないという他責思考と利己主義に陥っていた。対して自分の家さえも顧みずひたすら職務を全うしている、その上私に謝る気遣いさえできるこの自衛官様に、もう何も言う事ができなくなった。

「つまらない事を聞いてしまい申し訳ありませんでした。お勤めご苦労様でございます。有難うございます。」

そう言うのがやっとだった。

自分には絶対にできない事ができる人。その偉大さを嚙み締めた。

あの震災の中で2回目の感動だった。



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