麻生副総理が上川大臣に対して「決して綺麗な方とは申しませんが」という発言をしたことが議論を呼びました。この発言への批判者は女性差別だと指摘しますが、その批判こそがより深い社会的な意味合いを含んでいる可能性があります
ルッキズム?その認識ホントに合っていますか?
一部では、この発言を男性中心社会におけるルッキズム、すなわち外見に対する偏見の表れと捉える批判があります。しかし、そのような批判は表面的な見方に過ぎないと私は思います。
実際には、この発言の背後には、男性が性加害者ではないことを証明するというニュアンスが隠されていると考えられます。性加害者は被害者に性的関心を持つと一般に考えられていますが、麻生副総理の発言は、そうではないという【自己防衛】の意図を示していると考えるのが自然ではないでしょうか。
何故そう考えるのが自然なのかといえば「文脈」です。麻生副総理の全発言を聞けば誰でも解ることですが問題とされた発言は上川大臣をとても褒めている本論の前置きとして使われているのです。
このような前置きがなされる背景には、男性が女性に対して性加害を行うというステレオタイプが広く蔓延しているという問題があります。そのため褒めるにしても「私は性的な対象としては見ていませんよ、そのような動機でもありませんよ」とあえて表明する【自己防衛】が必要になってしまうと言うわけです。
しかし麻生副総理の発言は、上川大臣を邪な思惑は一切なく称賛する意図であったとはいえ、言葉の選び方が不適切であったとの批判は避けられません。公人としての責任を果たすためには、言葉一つ一つに注意を払い、性差別的な意味合いを含む可能性のある発言を慎む必要があります。また、社会全体としても、性差別の問題に対する意識を高め、公平で平等なコミュニケーションを目指すべきであったのは否めません。
とは言えこの【自己防衛】を必要とする環境は何も麻生副総理に限らずアメリカの政治家でも「私は妻以外の女性とは決して密室に入らない」と公言したり、政治家でなくとも満員電車内では男性は両手ホールドアップをしないと疑われる可能性があったりと様々な場面で男性の生きづらさを生んでいます。
恐らくこれを読んでいる批判者側の方はこう言うでしょう。
「それはそもそも性加害する男性側に問題があるわけで自業自得だろう。」
しかしこの考え方は差別そのものです。属性内の一部の人間の仕業によってその属性全体に責を求めるのは差別そのものです。
この視点が批判者側には極端に欠けているのではないかと感じざる負えないです。
そして詳細は後述しますが何より、本質よりも言葉の選び方を徹底的に叩こうとする姿勢にはとある危険な兆候があるのです。
現代ルッキズムは深化してしまった
また批判者はルッキズムの本質には女性差別が根底にあると言いますが本当にそうでしょうか
ルッキズム、すなわち外見至上主義は、確かに昭和世代においては女性に対して主に適用される傾向がありました。しかし、現代の若者世代では、この概念は男女を問わず広がっています。昭和世代におけるルッキズムの主な評価者は男性でしたが、現代では女性がその役割を担うことが多くなっています。この変化は、主にソーシャルネットワーキングサービス(SNS)の影響によるものです。
SNSの普及は、人々が自分の外見を発信し、他者からの評価を受ける場として機能しています。このプラットフォーム上での「いいね」やフォロワー数が、個人の社会的価値を測る指標となり、外見に対する圧倒的な重視が見られます。特に、女性たちの間で「SNS映え」する外見が重要な判断基準となっており、これがルッキズムの現代的な表れと言えるでしょう。
この様にルッキズムは変化しており必ずしも女性差別を根源とするものでは無いと言えます。昭和の頃は男性は3高(高収入、高身長、高学歴)が良いとされました。この価値観からも「男は顔じゃない」と言われた当時の風潮が伺えます。この様な時代背景からルッキズムは専ら男性から女性に向けられたわけです。しかしそれは昭和の事実であってルッキズムの本質ではありません。現に今の男性は高収入、高身長、イケメンが好まれているのではないでしょうか。
現代のルッキズムは男性から女性への差別ではなく(外見)強者から(外見)弱者への差別になっていると言えます。
この事からもルッキズムの本質は女性差別に限らず、もっと対象が広範なものであると言えます。
ホワイト社会の行きつく先は格差社会
この様に現代社会でのルッキズムはSNSを中心とした情報発信の民主化によって、より深くて広い問題になってしまったと言えます。
岡田斗司夫氏はこの様な変化はルッキズムに留まらず例えば「美味しいけどもちょっと汚いお店」も許容しない徹底した綺麗であって当たり前の社会に向かっていると警告します。
岡田氏によると、現代社会は「ホワイト社会」と呼ばれる段階へと移行しており、これは外見や言動の「清潔さ」を重視する傾向が強まることを意味しています。この社会の特徴として、2030年から2040年にかけて成立すると予測されており、物理的な清潔さだけでなく、言葉や行動においても「清らかさ」が求められるようになるとされています。
岡田氏は、ホワイト社会の到来によって、見た目至上主義や清潔が正義とされる風潮が強まり、それが新たな形の格差を生み出す可能性があると指摘しています。このような社会では、外見や発言が社会的な評価の基準となり、それに適応できない人々が不利益を被るリスクが高まります。特にSNSなどのオンラインコミュニケーションにおいては、攻撃的な言葉や不快感を与えるような発言が社会的に排除される傾向にあり、これがコミュニケーションのあり方に大きな影響を与えています。
岡田氏の挙げる対策としては、個人レベルでの「良い人戦略」が提案されています。これは、悪口を言わない、自虐を控える、ネガティブな面を表に出さないといった行動を意味しており、社会的な評価を保つための戦略とされています。また、企業や団体においては、個人の発言や行動を事前に審査することが一般的になりつつあり、コンプライアンスへの対応が重要視されています。
しかし、これらの対策はあくまで現状の社会的な要求に応じるためのものであり、根本的な解決策とは言えません。真の対策としては、教育や社会制度の改革を通じて、外見や言動の「清潔さ」だけでなく、多様性や個性を尊重する文化を育むことが求められます。また、テクノロジーやメディアの進化に伴い、新しいコミュニケーションの形が生まれることで、社会的な評価の基準が変わる可能性はあります。
とは言え最終的には、ホワイト社会における新たな格差を防ぐためには、個人の意識改革だけでなく、社会全体の価値観の転換が必要です。それには、関連思想、教育、政策、メディア、そして個々人の行動が連携して、より公平で包括的な社会を目指す努力が求められるはずです。
現在の政治や学校教育やフェミニズムや大手メディアを見るに新勢力であるインターネット上の議論を極端に下に見る傾向がありその認識も昭和で止まっているのではないかと思わざる負えない場面も多々見られます。確かにインターネット上のSNSがホワイト化の主原因かもしれませんがかと言ってインターネット上の言論を全て下級なものとみなすのは既得権益主義とも言えます。そのような保守的な態度をとるこれら既存勢力にはたして自己改革が本当に期待できるのでしょうか。
ホワイト化と格差社会を阻止し進路を変更できるのは我々の強い意志の結集しかないのかもしれません。
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