物理学に興味のない一般の人が確率について語る時、パチンコパチスロの話になりがちですね。ではこの確率というものを制御し記憶しているのは一体だれなのでしょうか。
確率、それは神の乱数なのか
サイコロを振るのは神なのか
サイコロは6つの面がありそれぞれの面がでる確率は等しく6分の1づつである。
ここまでは良しとします。(サイコロの掘り込みによる出目の確率差や工業製品としての製造誤差はここでは無視とします)
問題はこの次。
ある程度以上サイコロを振れば各面がでる回数は理論値の6分の1回に限りなく近づいて行く。
誰でも知っている話です。
でも
「何故そうなるのか説明せよ」
と改めて言われたら、サラっと説明できる人はどれだけいるのでしょうか。
統計学やらを持ち出して「過去の経験、実験からそうなるのです。そこから算出した数式だって表せます。」・・・これは筆者の問いへの答えではありません。
理論的にも経験則からもそうなる事が解かっているのだから、そういうものだと覚えておけ・・・・これは典型的文系人間の結論であり、理系脳の人間にとってはこれでは何も本質的な部分の解明をしてはいないのです。
「サイコロを振るという行為は物理現象なので振る人の振り方のゆらぎが結果として出ているだけです。」
これが理系脳も納得のいく答えです。
サイコロの何の目がでるのかは、振る瞬間の状態から計算することができるけれども、振る人にとってはあまりにも自分でそれを制御するには微妙な状態の違いでしかない。故に人間による制御は不可能。なので人間は6つの面に対し(回数が重なれば重なるほど)等しく出る機会をあたえてしまう。
逆に常に完全に同じ動きをする事ができるロボットアームならば、常に1の目を出し続けることも可能なはずです。(磁気、重力、大気等の状態さえも完全に同じであれば)
つまり、サイコロ振りによってでる目のランダム性は人間が作り出したものなのです。決して神のみぞ知る世界ではない。
神を持ち出す必要がどこにもありません。
神がサイコロの目を制御もしないし記憶もしなくても、人間が勝手に行うゆらぎが1から6で整数が条件の完璧な乱数を作り出してしまうのです。
しかもこれはサイコロに限りません。あみだくじにしろ、宝くじにしろ物理現象を利用したものは全て同じロジックが当てはまるのです。
共通するのは「超精密な機械が行えば制御可能である」ことです。
物理現象に頼らないサイコロでは
では物理現象に頼らないサイコロ、記事タイトルのパチンコパチスロのコンピューター上のサイコロ(当たり判定フラグの参照元)ではどうなるのでしょうか。
筆者の知る限りはコンピューター上で確率を扱う場合は乱数を利用します。例えば256分の1の確率で大当りを出すようにしたかったならばこうです。
1 乱数から等しく0から255までの整数が生成される様に設定する
2 大当り判定時に生成された整数が0ならば当り、1~255ははずれ
これで一見「完璧なる神の確率制御」が出来上がった様にみえますが、実は問題がひとつあります。
それは
ここで乱数を生成したのもコンピューターであり、遡れば乱数生成のプログラムは人間が作ったものである。
コンピューター上で確率を扱う場合の絶対的要素である乱数。これが人間が作ったものに過ぎない=完全な神の乱数ではない=コンピューター上のサイコロには作為的要素がどうしても残る。
こうなってしまうのです。
実際の話で、あるプログラム言語で利用できる乱数生成命令では生成される乱数に周期性が発生してしまい、過去のデータからこれから生成される乱数を有る程度予測されてしまう。こんなものすらあるのです。
パチンコパチスロでこんなことになったら台の回収騒ぎでしょう。だからこれらではもっと高度な乱数生成をしているはずです。
それでも神の目線で見るならば
コンピューター上で生成された確立をどれだけ統計学したところで全ては
「大元の乱数生成がどれだけ私=神の領域に近づけましたか?人間さん」
でしかないのです。
従ってコンピューター上の確率の遊びであるパチンコパチスロも結局は人間が作り出した作為的要素が残る擬似乱数に制御された擬似サイコロを振っているに過ぎない訳です。
コンピューター上で完璧な確率を再現するには「神の乱数」が必要だった。
まとめ
確率について改めて考えてみると、それまでなんとなく感覚として持っていた印象とは真逆の結果になったような気がしませんか。
- 物理上のサイコロは神の存在を全く必要としない
- コンピューター上で完璧なサイコロの再現には神の力を必要とする
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